赤 山 地 下 壕


( 千葉県舘山市  平成29年3月19日 )


 舘山は、江戸時代の終わりの頃から太平洋戦争が終わった昭和20年まで、東京湾の入り口にあるので、国の中心である東京を守るための重要な場所であった。そのため、舘山には海軍航空隊や砲台跡などの戦争遺跡が今でも残っている。赤山地下壕もそんな戦争遺跡の一つである。



 現在の海上自衛隊館山駐屯地のすぐ近くに、通称「赤山」と呼ばれる標高60m程の小高い丘(赤山)がある。凝灰岩質砂岩などからできた岩山の中には、総延長1,6kmの近い地下壕が残っている。
 受付事務所で黄色のヘルメットと懐中電灯を渡されて地下壕へ入って行く。入り口が狭いのは敵から見つからないようにするためなのだろうか。




 豪に入ると、中は少しひんやりとした冷たい空気が流れている。壕内に入ってすぐの場所は、天井の高さ3〜4メートルほどの広々とした所だった。いざという時には、本部機能を丸ごと移設することも考えていたのだろうか。 素掘りのままであり、ツルハシの跡がそのままに残っていて、「戦況が悪化する中で、慌てて造ったのでは」とも考えられている。




 舘山海軍航空隊の機能を維持するための格納施設が造られ、緊急の兵舎や医療施設として使用されていたと言われていて、地下壕内部の形状から見て、基地の司令部・奉安殿・戦闘指揮所・発電所・航空機部品格納庫・兵器貯蔵庫・燃料貯蔵庫などの施設があったと考えられ、全国でも極めて珍しい航空要塞的な機能をもった地下壕であった。



 この壕には発電用としてディーゼル発電機が設けられていた。そして、格納庫や奉安殿、戦闘指揮所、兵舎などがあったそうです。終戦時には壕内で保管されていた多数の無線機が米軍に接収されたという記録もあるといわれ、海軍の防空壕としてだけでなく要塞としての機能を備えていた。

 壕内の暗さに目が徐々に慣れてくると、壁面に広がる鮮やかな地層に気付いた。さらによく見ると、無数のツルハシの跡が残されている。壕の建設時期は諸説あり、昭和10年代の初めとも19年以降とも言われているが、海軍の工作部隊が本土決戦に備えて急ごしらえで掘削し、素堀りのまま使用していた様子がうかがえる。海軍航空隊のバックアップ用の要塞という位置づけらしく、広々とした造りが特徴的です。天井も高く、背の高い大人でも歩きやすいです。




壁の一画に小さなクボミがある。
 この四角く切ったクボミは天皇陛下の御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。房総半島地方の空襲の時には、航空隊からこの地下壕へ御真影を運び出したそうです。これは少尉クラスの士官の役割でした。




 この地下壕がいつ頃造られたのか、資料がないので詳しいことははっきりしていないが、昭和17年より後であることは確かであると言われている。しかし、昭和10年代の初めに密かに建設工事が始められていたとの説もある。
 一方、昭和19年以降に掘り始められたという説もあり、昭和20年の終戦の日まで工事が進められていたとの証言もあるそうだ。
 いずれにしても、太平洋戦争後に軍部がこの壕の建設に関する資料を廃棄してしまったようだ。



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